果たして、仏教において「墓」とはどういったものなのでしょうか。「墓を大事にする」、「遺骨を大切に取り扱う」という考え方は、仏教伝来以前からエジプトやヨーロッパの遺跡からもうかがい知ることができます。こうした「遺骨信仰」の考え方は、世界中にあるようです。仏教の宗派によっては、お釈迦様の遺骨を納めているストゥーパ(仏舎利塔)を備えているかどうかによって、自分たちの寺院が本筋であることを主張し合うことによる論争も続いています。戦後GHQが東条英機らのA級戦犯たちの遺骨がこれ以上民衆から崇められることがないようにと、東京湾沖に秘密裏に捨てたという歴史もあります。最近では、オウム真理教の浅原被告の遺骨を誰が譲り受けるかで教団内で争いもあったと聞きます。
遺骨信仰は世界中にありますが、お墓を設けること自体、インドを発祥とする元来の仏教の教えにはなかったことであり、祖先を祀るという日本の風俗習慣に基づくものでした。お墓の在り方は時代によってずいぶんと変化しているものです。古代においては権力者や有力者のみが許された大きな墳墓の時代がありました。江戸時代には、寺請制度により民衆にも墓が築かれるようになりましたが、政治的な方針によって民衆はどこかの寺の檀家になることが義務付けられたことによるものです。それは寺が現在の役所のような役割を担っていたからです。パリの地下にはカタコンペと呼ばれる一般民衆たちの骨が積み上げられている場所が現在も存在しています。キリスト教においても、昔は洗礼を受けた聖人以外は墓がなかったことが知られています。
仏教の始祖であるお釈迦様の残されたお言葉の中には、「人に依らざるべし。法に依るべし。」というものがあります。「人を頼りにするのではなく、教えを拠り所にしなさいね。」という意味ですが、ご臨終の際に弟子たちに説法した言葉として知られています。ここから、遺骨よりも教えを大切にしなさいというお気持ちがわかります。
また、浄土真宗の開祖である親鸞聖人が残されたお言葉では、「親鸞閉眼せば、賀茂河に入れて魚に与うべし」というものがあります。「死んだら、京都に流れる鴨川に捨てて魚の餌にでもしてくれ」というお言葉ですが、つまりこれは、「墓なんかいらない」という意味に解釈することができます。「葬式や法事で肉体をどうするかよりも、もっと大事なのは仏法の信心なのだ」と伝えたことも知られています。生きているうちに絶対の幸福になることが仏法の信心ということなのだそうです。
現代において、新たに墓を建立することはとても費用がかさむことです。そのことで、残された遺族を苦しい状況に追いやっている状況は、果たして故人が望んでいることなのでしょうか?残された家族にはなるべく負担をかけずに幸せに暮らしてほしいと望んでいるのではないでしょうか。
それでは、葬儀や法事は必要なのでしょうか?そうした機会は、普段忙しさの中でなんとか過ごしている私たちが、人生をまじめに振り返る機会になることは確かです。仏教の教えから何かを学び、何かを得ることができる機会なのだとしたら、葬儀や法事は意味があるものです。でも、もしもそれが単なるセレモニーで終わってしまっているのだとしたら、本来の仏教の在り方とは違ったものになってしまっていると認識せざるを得ません。私たちひとりひとりが、「お墓について」「葬儀について」「法事について」考えて、それぞれが自分自身の考え方に従って行動すればいいのだと思います。決まりきった答えはどこにもありません。
仏教の教えでは、お墓や葬儀とは、カタチばかりの作法ではありません。カタチばかりの伝統的儀式でもありません。それらは、心があって始めて意味を持つものなのではないでしょうか。形式的なカタチに従って義務的に何かを行うよりも、心から故人を思い、感謝をして心からの弔いを行うことの方が本来の仏教の考え方に近いのかもしれません。
参考引用:「仏教に学ぶ幸福論 by 菊谷隆太」
https://www.youtube.com/watch?v=lvKEmHzz63w&t=1s |